縄文文化を取り巻く自然界に「見えない何モノ」かが棲み、縄文人に様々な恵みや災いを与える。祖先と繋がる見えない仲間であると考え、その思考がよもやま話となり、親から子へ、孫へと伝わったとする考え方がある。
その「見えない何モノ」を粘土細工で具現化する場合、その表現が「ヒト化」したのが土偶である可能性がある。人を模倣して造形したのではない。初源期の土偶は、手のひらにのる小形で顔がない。土偶が隆盛する中期にも、顔のない土偶がある。また、中期、後期、晩期へと土偶形態は変化し、その出土状況にも違いがある。その「第2の道具」としての機能は同じでも、用途が変化した可能性すら考える必要がある。
さて、苗場山麓には数多い中期土偶が出土している。破片数の議論をするならば、現段階において新潟県内で一番数多く土偶片が出土している遺跡は、津南町の道尻手遺跡である。さらに信濃川本流域では、土偶が出土するが、その支流の魚野川流域では、土偶の出土は稀である。すなわち、土偶儀礼があったとするならば、信濃川本流と魚野川流域とは、その有無や形態の違いが想定される。

信濃川本流では、長岡市馬高遺跡や中道遺跡、栃倉遺跡、そして、三条市の吉野屋遺跡や長野遺跡で数多くの多様な土偶が出土している。その信濃川中流域の土偶と苗場山麓の土偶を比べると類似性はあるものの、違いも認められる。その違いは、土偶の腹部中心に縦に引かれる正中線が苗場山麓では隆起線で表現し、信濃川中流域では沈線で描く。さらに脚部表現が発達するのが苗場山麓で、信濃川中流域では脚部がない形態が中核を担う。また、顔の表現を観察した今井哲哉は「津南顔」とよんで、信濃川中流域の「三条顔」とは違うと指摘している。
また、津南町の中期前葉の上野遺跡では、大形の中空土偶が出土しており,中期中葉の内実と作り方や用途に違いがあった可能性がある。さらに中期前葉の北林C遺跡では関東地方の勝坂式土器圏内のある土偶に類似した土偶が出土している。
三角形土版とか三角形土製品と呼ばれているものを、佐藤雅一は省略土偶の一類と考え「三角形土偶」と呼んだ。この考え方には賛否がある。佐藤によれば、発生段階の資料が長岡市馬高遺跡にあり、土偶胸部から陰部に掛けてを三角の形態に押し込んで表現したものであり、明確な乳房表現と陰部表現があると説明した。さらに形態変遷を予察する中で、乳房表現が肩部へ移動する変化、さらには部位表現が形骸化し、全面文様化、無文化する変遷案を提示した。その後、今井哲哉は三角形土偶と呼ぶ省略型土偶とする考え方に賛同はするものの、変遷案に警鐘を鳴らした。それは十日町市笹山遺跡出土の土器を取り上げ、その把手に付随する三角土偶を指摘し、土器型式との関係から、佐藤の示した変遷観を正す必要を訴えた。現段階では、今井の意見を佐藤は学び、新たなる出現期から終焉期への変遷と分布域の検討を進めている。
自然界の「見えない何モノ」が縄文人の心に棲み、それを具現化する背景に縄文人の心象世界があると考えられる。興味深い考古現象として、火焔型土器を保有する文化圏にある苗場山麓と信濃川中流域とにおける土偶形態の違いがあることである。また、同様に魚野川流域には土偶の数が極めて少ない事実があるということである。この有無を含めた考古現象に縄文人の心が繁栄していると理解したい。
苗場山麓を中心とした土偶研究は、以下の文献がある。参考にして頂きたい。


(十日町博物館所蔵)
参考文献
栃尾市教育委員会 1961 『栃倉』
江坂輝彌ほか 1962 『新潟県中魚沼郡津南町上野遺跡発掘調査報告』 津南町教育委員会
新潟県立三条商業高等学校社会科クラブ考古班 1974 『吉野屋遺跡』
下田村教育委員会 1990 『長野遺跡』 下田村教育委員会
長岡市教育委員会 1991 『馬高遺跡』 長岡市教育委員会
長岡市教育委員会 1995 『中道遺跡』 長岡市教育委員会
佐藤雅一 2003 「新潟県における土偶研究の視点」『新潟考古』 第14号 新潟考古学会
佐藤雅一ほか 2005 『道尻手遺跡』 津南町教育委員会
今井哲哉ほか 2011 『北林A遺跡・北林C遺跡』 津南町教育委員会
佐藤雅一ほか 2014 『魚沼地方の先史文化』 津南町教育委員会
今井哲哉 2020 「道尻手遺跡と土偶―平成31年春季特別企画展 補遺 本特集の総論に代えて―」
『津南学』

