『秋山記行』に牧之は、中津川渓谷に散在している村々を絵図に描いた。絵図には越後秋山と信州秋山が凡例で示されている。赤丸が越後秋山であるという。現在は、硫黄川が新潟県と長野県の境界であり、甘酒廃村跡地は左岸の長野県域にある。しかし、絵図では硫黄川右岸に甘酒村が位置し、赤丸が付けられている。本来左岸にあるべき甘酒村が間違って右岸に描かれ、越後秋山の一部として記録されている。これは牧之の思い過ごしの間違いである。
和山村から湯本村を歩く牧之は、蝦蟇仙人が棲むような、幻想的でもあり、どこか懐かしさもある風景に驚くとともに対岸に聳え立つ赤倉山を赤茶色に描く。尖鋭な峰が角のようにいくつも立つ様子が付記を伴って描かれている。それによれば、赤倉山は別名「十三佛山」と呼ぶという。その峰々は、布岩・三ツノ山・毛無山・屏風の嶽の名があるという。この山は現在、白倉山、剃刀岩、鳥甲山、赤倉山、布岩山の連山を含んで鳥甲山と総称している。
また、興味深い記述は、「屋敷村の対面」とは布岩と思われるが、そこに木曾義仲が祀った石の観音様が「朝日ノ龍」と呼ぶ石室(洞窟?)の中にあるという。そこへは屏風のような岩肌に打たれた鉄の鎖を頼りに上り下りする。その途上の岩の裂け目に鰐口が掛かっているという話を牧之が書き残している。きっと、中世まで遡る山岳信仰の遺跡なのであろう。
この絵図に書き込まれている村々には、当時の戸数が書かれている。また、拡大したが(拡大図1~4)、サルトビバシ、ヤビツバシ、シラセ川・ザッコ川の記述が読み取れる。絵図の正面観は苗場山から見た秋山郷の視点であるが、拡大図4は反転しており、そこには「天相山・信越・小松原」の記述が読み取れる。
絵図
四軒 逆巻 サルトビ橋
ヤブツハシ
シラセ川
ザッコ川