広場と墓域

 縄文時代は、移動性の高い生活様式の時期と定住性が高い時期との2時期に大きく分けることができる。移動性の高い草創期から、前期前葉における縄文人の死者に対する弔いの考古学的事象は、少ない。縄文時代早期末と推定される事例が苗場山麓にある。それは、赤沢台地の城原集落西北にある雨池A遺跡である。大人が屈葬すると入れる程度の浅い土坑から13本の石鏃が出土した。基底面には顔料と推測され赤い痕跡が認められた。埋葬者の付近を赤く塗り、その傍らに使用していた鏃(石鏃が着柄された矢柄)が添えられて埋葬されたと推測される。
 もう一例は、阿賀野川流域の阿賀町室谷洞窟遺跡である。この事例は前期初頭の洞窟内埋葬事例である。土坑の検出はできていないが、埋葬人骨の頭部に深鉢を被せる状態で発見された。「甕被り埋葬」の事例である。移動性の高い生活様式における埋葬事例と推測されるもので、多量の鏃副葬と赤色塗布が行われた雨池A遺跡や洞窟が選ばれて甕被り埋葬を行った室谷洞窟遺跡の2例であるが、極めて重要な考古学的事象といえる。
 定住性の高い生活様式は、前期中葉から晩期ということで大別される。特に中期集落の調査事例が多い。集落全体が完全な形で発掘された事例に、長岡市岩野原遺跡と南魚沼市五丁歩遺跡がある。共に円形の中央広場を囲み、その周囲に竪穴住居跡が巡る。全てではないが、住居跡主軸が中央広場中心に向けて配列し、広場を挟み、おおよそ対面する住居跡がある。この広場の円周を「環」と呼び、その環の大きさが推計されている。推計であるが、岩野原遺跡や五丁歩遺跡は約50m前後、小千谷市城之腰遺跡や魚沼市清水上遺跡は約80m前後、苗場山麓の沖ノ原遺跡は約120mを計る。推計できた集落跡では、沖ノ原遺跡が最大級の広場を持つ遺跡である。
五丁歩遺跡の集落立地と構造
 この広場を調査すると竪穴住居跡はなく、ほとんど遺構は構築されていないが、浅い土坑が偏在的に検出される。この広場を完全に調査した事例は少ない。岩野原遺跡は埋葬土坑と推定される遺構から二つの孔が穿かれたヒスイ製大珠が出土している。五丁歩遺跡では、広場外周に礫が部分的ではあるが配列していた。それは完全に外周を巡る訳ではなく、部分的に広場の環とはやや異なる弧状配石として認識される。一方、津南町堂平遺跡は、部分発掘であるが6分の1程度の広場を検出し、その外縁に組まれた礫が弧を描き配列していた。調査では環状列石の一部を検出したと考えた。その列石の内側は平坦に造成され、数多くの浅い土坑が検出された。浅鉢を伏せた「甕被り葬」の事例は、土葬ではなく、火葬骨と炭の混土層の上に抱き石があり、その傍らに浅鉢が伏せられていた。これは甕被り葬のやり方を踏襲した特殊な埋葬事例として特筆される。その近傍には、基部が破損している太い石棒が埋められ、傾斜した状態で検出されており、当時は斜めではなく立っていたと推測される。
 このように環状集落の中心には広場があり、そこに埋葬用の墓域が構築されていた。すなわち、広場の機能は、埋葬としての「弔い」だけではなく、参集の機能を持つ。この参集は、祖先である埋葬者の近傍あるいは上で行われ、時には祝宴やダンス(踊り)などが行われていたと考えられる。現代文明では考えづらい風景であるが、祖先霊と現実を生きる人たちは、いつも時間軸で繋がる縄文思考があったと推測される。この考え方に真っ向からの反論もある。環状集落の形成も広場の有り様も、たまたまの結果でしかないとの反論があるが、その「たまたま」の配置現象の背景に規則性を読み解くのが環状集落形成論を考える私たちである。

環状集落 道尻手遺跡
甕被り埋葬
参考文献

中村孝三郎ほか 1964 『室谷洞窟』 長岡市立科学博物館
長岡市立教育委員会 1981 『岩野原遺跡』 長岡市教育委員会
新潟県教育委員会 1992 『五丁歩遺跡 十二木遺跡』 新潟県教育委員会
新潟県教育委員会 1991 『城之腰遺跡』 新潟県教育委員会
新潟県教育委員会 1991 『清水上遺跡』 新潟県教育委員会
江坂輝彌 1976 『沖ノ原遺跡』 新潟県中魚沼郡津南町教育委員会
佐藤雅一ほか 2011 『堂平遺跡』 津南町教育委員会