縄文時代最盛期の中期は、前期までに定着した「沈線文」や「竹管文」に加えて、「隆起線文」に代表される立体的な起伏をもたらす新たな装飾が文様の中心を担うようになる。粘土紐を文様描線に合わせて貼り付け、文様の主たる部分を強調した。それまでアクセントに用いられてきた粘土紐の貼り付けが、文様装飾の主役になったのである。これらは、「装飾性文様B」が更なる発達を遂げ、頂点を極めた姿の1つである。
その結果、装飾から縄文が消え、「隆起線文」(装飾性文様B)が器面を覆い尽くすようになる。しかし、中期の文様変化はそれに留まらず、縄文人の観念を思わせる「物語性文様」が生み出され、単なる図形を超える文様を土器の器面に表現するようになった。文様には規則性や対称性などの反復を排したものや、デフォルメされた何らかの生き物などが描かれるようになっていく。それらは、写実性を持たない抽象的表現であり、現代人には計り知れない縄文人の観念的世界が強く反映されたものといえよう。言い換えれば、対象を写実的に写していいのにも関わらず、あえて写実性を排した文様表現を用い、縄文人独特の感性や精神性を具現したものである。それは、長い日本列島の歴史の中でひときわ強い個性を発揮した『縄文文化』を体現したものということが出来よう。
新潟県が誇る「火焔型土器」「王冠型土器」は、こうした発達の方向性を体現した到達点と言える。

このように中期の土器文様は、その立体的装飾や「物語性文様」に見られるように、縄文土器が単なる容器としてではなく、それまでの装飾を応用して、縄文人の精神性や観念と強く結びつき、真意をくみ取ることさえ難しい創造性豊かな装飾へと発展を遂げている。小林達雄はこのような「物語性文様」などに代表される中期を、「応用の時代」として、その変遷の頂点に位置づけている。 中期の土器変遷は古い時期の城林遺跡などの土器や、後続の堂尻・道尻手遺跡の「後沖式」など、そして最盛期の「五丁歩式」・「馬高式」(火焔型・王冠型土器)・「栃倉式」を経て、新しい時期の「沖ノ原式」へと至る。

中期の中頃は縄文時代の最盛期で、土器の装飾も徐々に起伏や突起などの立体的な造形が強調され、その装飾は飛躍的な発展を遂げていく。
「火焔型土器」や「王冠型土器」はその頂点とも言える。しかし、最近、それらの成立を物語る土器が注目を集めている。それが「五丁歩式」である。これらは「火焔型土器」出現前夜に盛行したもので、南魚沼市(旧塩沢町)五丁歩遺跡の縄文土器を標識として命名された。装飾の特徴は、「隆起線文」が文様構成の中心を担い、文様モチーフの「主描線(主文様)」を構成し、主描線間の広い空間は「半隆起線文」や三叉文で埋められる。こうした「五丁歩式」の装飾は、土器の器面から平坦部を格段に減らして、土器文様の立体性を飛躍的に増進するとともに、縄文を回転させるスペースを奪っていった。火焔型土器前夜の「隆起線文」が描く「主描線(主文様)」と陰影が増した「半隆起線文」や三叉文は、縄文の消失とともに、これ以降の土器装飾の下地となり、「火焔型土器」へと引き継がれていく。

中期の最盛期は「火焔型土器」と「王冠型土器」が苗場山麓を彩り、縄文土器の頂点ともいうべき華やかな装飾を発達させた。「火焔型土器」や「王冠型土器」は「馬高式」と呼ばれ、同時期の「大木8a・8b式」や、前後の「五丁歩式」や「栃倉式」などと合わせて「火炎土器様式」とも総称されてきた。長岡市馬高遺跡出土資料を標識とし、古くから全国的に知れ渡っており、今や縄文土器の代名詞ともいえるほどになっている。装飾の特徴として、「五丁歩式」と比べ、器面は「隆起線文」や「半隆起線文」で埋め尽くされ、「隆起線文」間に平坦部分はほとんど無くなる。「火焔型土器」の「半隆起線文」は、「千石原式」や「五丁歩式」から受けついで発達し、凹部を深く太くなぞることで、凸部がより高く強調されたものとなった。突起も、「火焔型土器」の「鶏頭冠突起」や「王冠型土器」の「短冊形突起」が完成するが、このうち、「火焔型土器」の「鶏頭冠突起」は、あたかも何かの生物のような表現となり、その尾部が尻尾のように高いものへと変化するとともに、脚部の間には「ハート形の窓」が統一的に造形されるようになっていった。
こうした「隆起線文」や「突起」などの装飾は、一説には「トンボ眼鏡状突起」を起点とする生き物的な造形が表現されているとも推測され、土器文様を応用し、縄文人の精神的な観念を映し出した「物語性文様」の一種とも考えられている。


隆起線文装飾が器面を埋めた「火焔型土器」の後を受け、後継の「栃倉式」が盛行する。「栃倉式」は長岡市栃倉遺跡出土資料を標識とするもので、短い沈線文を密集して充填する特徴がある。短い沈線文は、斜行あるいは矢羽状に充填されることが多く、こうした短い沈線文を「綾杉文」と呼ぶことがある。「綾杉文」の沈線文は一本一本が棒のような工具で引かれるもので、これまでに用いられてきた2本を同時に引く「竹管文」とは技法や出自が異なる。おそらく、文様の下地となっていた縄文の条を沈線表現に置き換えたものであろう。
これら「栃倉式」には、他にもそれを特徴づける文様装飾が独自に発達している。例えば、口縁部の文様交点の小さな渦巻文は、上方に飛び出すように強調され、それ以前にはないものとなっている。また、胴部は漢字の巳の字のようなモチーフが基本構成となり、2条が1組となる「隆起線文」で描かれている。突起も大型で、最盛期には大・小の突起が交互に口縁部に配置され、多数の突起が林立するような効果を出している。中には土偶の顔面が突起装飾に組み込まれるものもある。
こうした「綾杉文」に代表される「栃倉式」は、当初は胴部の下地に「縄文」が縦方向に施されるものが少なくなかった。このような特徴は「火焔型土器」と同時期に用いられた「大木8b式」の仲間に見られるものであり、「栃倉式」がそれらから発生したことを示唆している。


(大木8b式の仲間)
中期が終わる頃、苗場山麓には「沖ノ原式」が成立する。「沖ノ原式」は津南町沖ノ原遺跡出土資料を標識とし、口縁部の渦巻文とそれを繋ぐ「隆帯」(加飾隆帯)が特徴となる。それ以前に盛行した「火焔型土器」や「栃倉式」などにみられる、器面に広く展開した「隆起線文」装飾は、「加飾隆帯」装飾へと置き換わり、大型の突起は低調となる。
このように中期の終わり頃の苗場山麓では、口縁部周辺に集約された「加飾隆帯」装飾が一般化し、新たに「磨消縄文」や「光沢」を放つ土器が加わって、来るべき土器文様の転換の始まりを告げる。

参考・引用文献
津南町教育委員会 2024 『苗場山麓の土器文様―縄文土器の文様変遷史―』

