ここで触れる遺構は「跡」であって、住居や建物の話ではない。言い換えれば、構造としての住居や建物については、推定の域を出ることは原則ない。
後期終末から晩期前葉に営みの中心があった正面ヶ原A遺跡では、二つの遺構が注目される。一つは、円形の堀り込みを持つ竪穴住居跡である。その床面積は++㎡前後であり、床面のほぼ中心にこぶし大の礫を円形に並べた炉跡がある。中期の竪穴住居跡に比べると柱穴が細く、柱の配置に違いが見いだされる。中期は炉主軸を軸に縦と横の構造が規格化している傾向がある。馬蹄状などのベット状遺構と呼ぶ段は晩期住居跡にはない。晩期住居跡は、壁周溝が深く発達し、その中に細い柱穴が間隔を開けて検出される特徴がある。壁周溝は、中期の住居跡にも確認されるが、浅く、やや構造が異なる。すなわち、中期の竪穴住居跡は、柱構造が屋根をしっかりと支えるものであるが、晩期の竪穴住居跡では壁建ち構造で屋根を支える可能性がある。
掘立建物跡は、長方形を呈し、竪穴状の構造を持たない。さらに、主軸中心などの炉跡はない。したがって、土間ではなく、高床式の構造であったと考えられる。柱穴の大きさは、晩期の竪穴住居跡と比べると深くて太い。単純に考えて頑丈な建物で、柱構造で屋根を支えていたと推定される。
これら円形の竪穴住居跡と長方形の掘立建物跡の機能が問題である。円形竪穴住居跡は小川の両岸に建て替えながら移動せずに立地する。一方、長方形の掘立建物跡は、広場と推定される場所を囲むように並び、ここでも幾度かの建て替えを行うが、その環状帯の範囲から出ることなく検出される特徴がある。一方が土間であり、一方が高床である。さて、その機能はいかなるものなのであろうか。
身分の違いとは考えずに、屋根構造のある施設としての共通性があるが機能というよりも、役割が違っていた可能性がある。
現在、検討作業中であることから詳細は不明である。分布する土器群からは、後期末葉~晩期前葉に生活の中心があったことがわかることから、少なくとも段階的な時間的変遷が予測される。しかし、その変遷が竪穴住居跡から掘立建物跡へと変遷するとは考えにくい。そうなると、季節使用の違いなのか、多雪環境にある苗場山麓では、冬期に水辺から離れ、掘立建物跡に集住したのであろうか。それとも、掘立建物跡が居住場所であり、円形竪穴住居跡は水辺付近にあり、火を焚いた痕跡が顕著であり、さらに石剣や石冠などが出土していることから、食べ物加工場であり、食べ物の安定と豊穣を願う祈りを加工場で行ったと考えることは可能なのであろうか。その場合、大量に出土したトチノキの実から、水晒し場が近接して存在していたことは間違い無い。さらに、二次移動した鮭などの加工食材の燻製施設との補完作業場としての可能性はないのか。
今後の調査整理からいま一歩、推論を深めて記述できる段階まで、お許し頂きたい。

参考文献
阿部昭典 2010 「新潟県における縄文後・晩期の集落構造の複雑化」『津南シンポジウムⅥ 正面ヶ原A遺跡から垣間見た縄文社会-北信越の縄文時代後期後葉から晩期前葉』
津南町教育委員会
佐藤雅一ほか 2014 『魚沼地方の先史文化』 津南町教育委員会

