信越国境の合戦 ー南北朝時代ー

 後醍醐天皇の呼びかけに応じた足利尊氏や新田義貞らの武将たちによる「元弘の乱」によって鎌倉幕府は1333年に滅亡する。苗場山麓地域は、新田氏の所領であり、越後新田とも呼ばれ、討幕に中心的な役割を果たした。その後、足利尊氏との対立の中で、南北時代となり、本地域は、南朝方であった。しかし、志久見川を挟んだ、信州側の市河氏は北朝方であり、この地で戦があったと伝わっている。

 市河氏の残した市河文書は、中世の貴重な古文書で、国指定重要文化財に指定され、山形県酒田市にある本間美術館や長野県立歴史館、山梨県立博物館にそれぞれ保存されている。市河氏は、中世から、戦国時代の動乱も上杉氏の一員として乗り切り、上杉氏の会津・米沢移封にも同伴し、江戸時代、そして現代まで市河氏は続いている。市河文書は、市河氏が記録した中世の状況を伺うことができる大変貴重な資料である。この市河文書によると、南北朝時代には、信越国境を挟んで2回の争いがあったと記録されている。

 1度目は、暦応3年(1340)8月20~21日 新田義宗ら越後新田一族と越後国内の天皇方が、信濃国志久見口長峯に多勢で攻め入ったため、足利方の吉良時衡、市河倫房ら市河一族が応戦し、天皇方に勝利するという記録がある。これは「長峯の戦い」と呼ばれている。

 もう1つが、暦応4年(1341)5月28日、市河大炊助倫房ら、越後国凶徒対治のため、上杉憲顕・信濃守護小笠原貞宗に従い、「妻在荘」に向けて出陣する。この文書は、「妻在荘」の初見である。

 同年6月3日、守護勢、赤沢南山に陣を構え、越後新田勢と合戦におよび、新田右馬助・新田大膳亮等の館を焼き払う。これを「赤沢南山合戦」と呼ばれる。

 このように、南朝方は、破れたと考えられるが、志久見流域の小池集落のお堂の側に、南北朝和睦の地という伝承が残されている。これは、信越国境の志久見川を挟み、南朝方と北朝方が争ったということの1つの伝承であると考えられる。


引用・参考文献

中嶋紀子 2015「赤沢地域の南北朝史」『津南シンポジウムⅩⅠ予稿集魚沼地方の中世』 津南町教育委員会