土器文様のさらなる発展ー後期と晩期の土器ー

1.後期の土器
 苗場山麓の後期初頭は、胴部全体を刺突文が覆う「三十稲場式」が盛行した。頸部の「加飾隆帯」が中期から引き継がれ、新たに多数の蓋形土器が加わった。深鉢形土器の胴部の刺突文や、蓋形土器の盛行は、他に例がない新潟独特の局地的な特徴である。近年、後期の古い時期に関東や信州地方の注口土器とその蓋型土器や、三十稲場式の身(深鉢)と蓋形土器それぞれの類似性によって、注口・壺形土器が三十稲場式の成立に大きく関わった可能性が考えられるようになった。
 つづく後期前葉には、「ひんご1・2式」が苗場山麓に展開する。関東・信州地方と関連深い土器で、「磨消(すりけし)縄文」を文様に用いた。
 「磨消縄文」とは、複数の沈線文の間に縄文を施し、沈線からはみ出た部分を磨り消し、文様となる帯状施文部を描出したものである。文様は非常に繊細で、器面は光沢を帯びている。当初は太い沈線文で描線を用いたが、新しくなるにつれて徐々に細く浅いものに変わっていった。
 苗場山麓では、前述した「三十稲場式」期にはまだ「磨消縄文」や光沢を放つ土器は浸透していなかった。中期以前にも口縁部の先端や内面などに光沢面が見られるものあるが、器面全体に及ぶものは、関東・信州地方の精巧な注口付土器や浅鉢など、特殊なものにとどまっていた。この点で、後期の古い時期の土器装飾は、中期の新しい時期の延長にあると言えるだろう。
苗場山麓の後期初頭と前葉の土器
苗場山麓の晩期前半の土器1
2.晩期の土器
 「大洞式」(亀ヶ岡の土器)が東北地方を席巻するころ、晩期の苗場山麓には信州地方の「佐野式」が、苗場山麓などの新潟県山間部を中心に展開した。この時期の信州地方との繋がりは、すでにそれ以前の後期後半には明らかだったが、晩期にも引き続き維持された。
 苗場山麓では、正面ヶ原A遺跡の出土資料がこの時期を代表する。「佐野式」が非常に豊富で、「三叉文」がこの時期の文様を特徴づける。先端がかみ合わない「非連鎖的三叉文」がその特徴の1つとされているが、正面ヶ原A遺跡の例には、当遺跡特有の「正面ヶ原型巴状三叉文」や「正面ヶ原型棘状三叉文」と仮称されるものが非常に多い。
三叉文の模式図
 三叉文自体は、中期には出現しており、苗場山麓でも断続的に生起する。古い時期の「千石原式」の波状口縁部直下や、中頃の「五丁部式」の文様空白部の陰刻などに見られる。これらは文様として強い個性を発揮していたが、文様の中心となることはなく、後期で一時期見られなくなった。しかし、晩期に復活し、土器文様の主役として多用されるようになる。三叉文は文様として顕在化していなくとも、脈々と受け継がれた特殊な文様である。
 晩期も「磨消縄文」と「ミガキ」による器面調整が顕著で、後期以来の技法が受け継がれている。土器の厚みも非常に薄い物がほとんどで、後期よりも、赤彩が多くなり、皿形土器が出現・定着し、法量が小さい精巧な土器が多くなる。
 晩期の土器装飾は、その古い時期を中心に三叉文が発達し、後期の調整を受け継ぎいだ。そして、光沢を伴う皿や精巧な小型の土器などを加えて、より洗練化されて終焉を迎えた。縄文土器は、終盤に至るまで変化を止めず、土器文様はより一層熟成されたのである。

苗場山麓の晩期前半の土器2
参考・引用文献

山村貴輝 2008 「Ⅲ部 文様と意味 玉抱き三叉文」『総覧 縄文土器』 アム・プロモーション
津南町教育委員会 2024 『苗場山麓の土器文様―縄文土器の文様変遷史―』