集落と住居

 苗場山麓で検出された竪穴住居跡は、芦ヶ崎西平遺跡の早期後葉に帰属するものが最古の事例である(長沢:2002、今井:2018)。前期中葉の諏訪前東A遺跡では、大・小の隅丸方形を呈する竪穴住居跡が不規則ながら配置して検出されたことにより、集落跡の一部を記録することができ、これが苗場山麓最古の集落跡である(佐藤:2016)。
 前期末になると上原E遺跡や立石遺跡、道下遺跡など複数の遺跡で竪穴住居跡が検出されている。さらに中期前葉になると道下遺跡や堂尻遺跡、城林遺跡などでは、住居床面に不規則な地床炉が検出されるようになる。中期中葉になると竪穴住居跡主軸線上の中央に石で縁を囲んだ石囲い炉が出現し、沖ノ原遺跡や道尻手遺跡などあちこちで検出されている。
 中期中葉末になると、石囲い炉の一端がさらに囲まれる新しい炉の形態が堂平遺跡で検出され、複式炉の祖形として評価する考えがある(佐藤:2011)が、その考え方には批判もある(山本:2011)。さらに中期後葉の沖ノ原式土器期になると東北地方の大木9式土器が入り込むとともに複式炉が作り出される。沖ノ原遺跡1号住居跡の複式炉は日本一美しい炉として評判である。このような形態を示す炉は、機能として暖や明かり、煮沸・焼くなどの料理行為だけではなく、形態的意匠の意味や囲み石の間に小さな石を丁寧に埋め込む意味の精神的背景があり、それは観念的世界と関係する炉の形態ではないかとの考える研究者もいる。
 後期・晩期の竪穴住居跡の発見例は少ないが、その形態はこぶし大の礫を方形や円形に巡らし、単純化している。
堂平遺跡 石囲炉
沖ノ原複式炉
 このような竪穴住居跡は、規則正しく環状に並ぶことが多くの遺跡で認められ、その典型的な有り様を南魚沼市五丁歩遺跡で観察することができる。このような環状集落は中期中葉に形成されるが、集落の終焉に伴い後期集落の実態は、いまひとつ不鮮明である。
 晩期の集落跡が正面ヶ原A遺跡である。この集落跡は、湧水が流れる沢筋の両岸に竪穴住居跡が構築され、台地の中央部に広場が作られ、広場を囲み掘立建物跡が環状に分布することが判明している。さらに、土坑墓は広場にはなく、掘立建物跡の南外縁部に東西に分かれて構築されている。その墓は、身体を伸ばした状態で埋葬される伸展葬型式の墓であり、細長い土坑(下部構造)が掘られ、それを埋めた上部に石棺状に礫を配置する(上部構造)ことが認められる。また、伸展葬であることから細長い土坑の主軸方向を整理するならば、その主軸が向く方向に規則性があることが分かる。
 このように、少なくとも中期中葉の集落跡と晩期前葉の集落跡には、墓域と埋葬法に大きな違いがあり、異なる社会的背景が成立していたと読み解きたい。

五丁歩遺跡遺構分布図

参考文献

江坂輝彌 1976 『沖ノ原遺跡』 新潟県中魚沼郡津南町教育委員会
新潟県教育委員会 1992 『五丁歩遺跡 十二木遺跡』 新潟県教育委員会
佐藤雅一ほか 1997 『午肥原地区遺跡確認試掘調査報告書』 津南町教育委員会
佐藤雅一ほか 1998 『堂尻遺跡群発掘調査報告書―国営農地再編パイロット事業に伴う遺跡確認試掘調査及び発掘調査報告書―』 津南町教育委員会