『秋山記行』の中では、「マタギ」という言葉はない。狩人・猟師という言葉で出ている。この『秋山記行』の中で鈴木牧之は、湯本村(切明)で秋田県からきた猟師に出会い、次のような話を聞いている。
「猟師は鍋を2つ3つ、椀は人数分と米と塩だけで深山に30日も住み着くといい、着るものはイノシシやクマの毛皮、夜具も毛皮、そして寝茣蓙が1枚。小屋は叉木を2本立て、桁を渡し、前は高く、後ろを低くして、細木を渡し、大木の皮を屋根にするものだという。夏は蹴網という罠を掛け、蹴網の蔓に足が触れると獣の上に石が落ちて押し殺すものである。」
牧之はこれらの猟師の四方山話を堪能した、サルの皮2枚を買い求め、くらしし(カモシカ)の角3本と山鼠の尾をおまけにしてもらったと記している。
大赤沢集落には、マタギと呼ばれる秋田猟師の子孫がいる。江戸時代、秋田県から来た親子が大赤沢集落に移住し、狩猟の技術や道具、山の神信仰を伝えた。ツメのついたカンジキを、アキタカンジキとも呼んでいる
旅マタギとして、大赤沢集落を訪れていた猟師が山で亡くなり、その猟師が持っていた「山立根本巻」が、今も伝わっている。この古文書は、津南町指定文化財に指定されている。
この「山立根本巻」は、マタギの祖とされる万事万三郎が日光権現の危機を救い、山で狩りをすることが許された「山立御免」を受けたという伝説が書かれており、マタギの起源とされている。これは、マタギが狩猟を行うことを正当化し、他の地域での狩猟を許可する「特権」を証明する役割を持っていた。
また、秋田県北秋田市阿仁地方における聞き込み調査では、秋田県から歩いて1週間で佐渡が見えた。そして、さらに1週間歩くと、苗場山についたという。秋田マタギは秋山周辺で狩猟して得た「熊の胆」を富山県まで行き、薬売りに売ったと伝う。そのお金で伊勢神宮を参拝してから、秋田県まで帰ったという。
明治3年(1870年)に「売薬取締規則」が発布されたことにより、法的な免状を持つ猟師のみが熊の胆などの動物性生薬を行商することができなくなった。


(アキタカンジキ)
参考・引用文献
鈴木牧之記念館 2008 『江戸のユートピア 秋山記行』 財団法人南魚沼市文化スポーツ振興公社

