まず遺跡動態表を読み解きたい。この動態表はあえて前期末葉から後期前葉の時間幅を取り上げて、遺跡の存続(動態)を観察したものである。青で示した活動は、1~3時期の短い活動の遺跡である。中期初頭に着眼するならば、前期末から継続する9遺跡と中期初頭から活動を始める9遺跡がある。そのうち3遺跡は長く継続する集落遺跡である。赤で示したものが、拠点集落として継続時間が長い遺跡である。その始まりは、前期末に1遺跡、中期の剣野E式期で3遺跡、次の千石原式期で3遺跡、さらに次の馬高式期で2遺跡が観察できる。その終焉は、まちまちである。その中で一番存続時期が長い遺跡が、上段にある道尻手遺跡で前期末から後期の三仏生式期まで、その活動の波はあるが継続していることが出土土器で理解できる。
苗場山麓で集落跡と認識できる遺跡は、前期中葉の諏訪前東A遺跡である。この段階で、既に長方形住居跡と隅丸方形住居跡が役割を違えて併存しながら、集落構成を保っていることが判明している。しかし、これ以降中期初頭までの集落跡は不詳であるが、洗峰E遺跡や立石遺跡、道下遺跡などで竪穴住居跡が検出されている。中期前葉では上野遺跡、上野スサキ遺跡、城原遺跡、堂尻遺跡などから竪穴住居跡が検出されている。

隅丸方形住居跡
中期の馬高式期からは明瞭な集落跡が確認できる。それが沖ノ原遺跡、堂平遺跡、道尻手遺跡である。沖ノ原遺跡や堂平遺跡では環状列石が構築されているが、その構築時期については、さらなる検討が必要である。しかし、これら3遺跡は、居住域と考えられる竪穴住居跡が広場を環状に囲む。広場と呼ぶ範囲には、浅い土坑が構築されている。堂平遺跡では浅鉢を逆さまに埋められ、その下から焼骨が検出された土坑や、近接して男根を模倣した太い石棒が立って埋設された状態で出土し、その周りを環状列石が囲む。
沖ノ原遺跡では、柱穴の径が最大180cmを計る6本主柱の長方形大形建物跡が出土している。その長さは約9m~10mを計り、互いが広場を囲んで向き合って配置されている。床面には長方形の石囲い炉があり、床面全体は竪穴状に掘られている。


フラスコ状土坑は、理科の実験器具であるフラスコに形態が類似することから、そう呼ばれている。その用途は、食料の貯蔵と推測されているが定かではない。堂平遺跡13J‐P1は土器がまとまって出土したことは確かであるが、この出土状況はフラスコ状土坑に第1埋没土が堆積してからの廃棄である。そのためその出土状況は、フラスコ状土坑の貯蔵機能を反映したものではない。また、多雪環境の越冬集落を考えると、3m前後の積雪のある降雪期にフラスコ状土坑から食料材を取り出すことは、難しいと判断される。したがって、採取した食料(堅果類など)を1シーズン貯め置きし、その後に乾燥、破砕、潰して粉状に加工した食材を竪穴住居の炉上にある二階屋(にかや)に貯蔵していたと推測できる。採取→貯め置き→加工→粉状貯蔵→食化のサイクルを想定したい。


参考文献
江坂輝彌 1976 『沖ノ原遺跡』 新潟県中魚沼郡津南町教育委員会
佐藤雅一ほか 2005 『道尻手遺跡』 津南町教育委員会
佐藤雅一ほか 2011 『堂平遺跡』 津南町教育委員会
青木利文・佐藤雅一ほか 2016 『諏訪前東A遺跡―県営中山間地域総合整備事業に伴う発掘調査報告書―』 津南町教育委員会

