文政8年(1825)の『秋山様子書上帳』によれば「食物は稗・蕎麦・栃などの木の実・粟などが常食で、米は遠方より買い入れ盆・正月のみ用いられた」という。また、『津南町史』によれば「コゴメ・アラモト・シイナといったくず米も粉にひいて、稗・粟の粉とともにアンボにして食べた。日に一度炊く飯は、必ず粟をいれたアワまんまであり、大根菜などを入れたカテメシであった」とある。
トチノキの実の食習俗は、まずは苦味であるタンニンの渋晒技術の獲得問題がある。この問題に関しては、考古学からのアプローチがあり、縄文時代に既にトチノキの実を加工して食べている証拠が認められる。津南町正面ヶ原A遺跡では、晩期に帰属すると推定される「トチ塚」が湧水流れる細い沢で発見された。貝塚同様に、トチノキの内皮が大量に積み重なった状態で記録されている。さらに長岡市中道遺跡では、中期後半の焼けた住居跡から編み棚にのっていたトチノミが崩れ落ち、炭化した状態で発見されたと推測されていることから、火焔型土器が終焉した中期後葉には、トチノミの食習俗があったといえる。
また、津南町見倉集落の東側斜面地に広大なトチ林がある。純林に近い状態で残されている。まさしく縄文の森である。おそらく、近世において管理下にあったトチ林であると推定される。山のクチが開けた9月の土用以降に山人がこぞって採集する様子が現在も見ることができる。


2.『秋山記行』にみる食べ物と縄文
牧之は旅している中で、秋山で栽培されている農作物や住む人々の食べているものを記録している。秋山は水田がなく、米が獲れないと見(み)玉(だま)で話を聞くが、清水(しみず)川原(がわら)では、小田が絵図に描かれている。
各集落では、粟、稗の雑穀を中心にトチ、ブナ、ナラの木の実の話を聞いている。他の農作物としては、大豆、小豆、カブ、エゴマ、蕎麦、青菜、サトイモ、ナスなどがある。鶏、たまご、シカ、クマなど動物類、マス、イワナなど魚類、カタハ、シモタケ、マイタケ、シロジシタケなどのキノコ類、黒ブドウ、グミなどの採集がある。記述にはないが山菜類も含まれると考えられる。この他、茶、漬菜、稗餅、稗の「あんぼ」なども記録している。
牧之自身は、米、味噌、塩、梅干し、ごま、外(と)夏(なつ)(酒)などを持参している。道中見(み)玉(だま)で渋茶を飲み、夕飯は、飯、ナスの味噌汁、甘漬けのナス。朝食はナスの味噌汁、ナス漬けであった。お茶は、清水川原、中ノ(なかの)平(たいら)、上野原で飲んでおり、三倉、湯本ではお茶づけを食べている。
タバコは、中ノ平、甘酒で吸っている。小赤沢では福原家でその姿が描かれている。
小赤沢では、粟飯とマイタケ汁、粟餅、粉豆腐を、湯本では米、マイタケ味噌漬け、稗の焼餅、上結(かみけっ)東(とう)で粟餅、サトイモ味噌汁、大根、ナマス、蕎麦、粟酒の存在を聞いている。非常に多様な食事が記録されている。
焼畑が行われており、粟、稗、蕎麦、カブなどがその作物と考えられる。クリの記録がないことも注目される。
縄文時代において、クリとトチが食の中心であり、ナラ、ブナなどの木の実を採取していたと考えらえる。沖ノ原遺跡では、炭化したクリや堅果類を粉にしてクッキー状にしたクッキー状炭化物が出土している。正面ヶ原(しょうめんがはら)A遺跡では、トチやクルミの皮が大量に出土している。このことから縄文時代から堅果類の利用があり、秋山の食文化と繋がるものがある。昨今、縄文土器に植物の圧痕が発見されるようになり、道(どう)尻手(じって)遺跡ではエゴマ、豆類の可能性がある圧痕、芦ヶ崎(あしがさき)入(い)り遺跡においては木の実圧痕の可能性がある土器が出土している。狩猟採取を生業にし、縄文カレンダーに代表される四季折々の資源を利用する縄文的姿勢方針と、秋山における自然にある食料資源の採取の利用は、現代まで続く、雪国における食文化に繋がるものである。
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(撮影:小川忠博)

