牧之がたどった秋山郷

⑨-2-2 牧之がたどった秋山郷


 牧之は、水先案内人を受けた桶屋の団造と近所のよしみで、よく茶呑み話で秋山の話をしていたのであろうか。なぜ、桶屋の団造が秋山に詳しかったのか。記述を読めば、団造は越後秋山に精通していたが、信州秋山は牧之とともに初めて歩いたようである。どちらにしても、なぜ団造が塩沢宿から約13里もある深山まで常々足を運んでいたのであろうか。桶屋、すなわち秋山で桶つくりをお願いでもしていたのであろうか?
その実態は不明である。
 文政11年9月8日から14日(現在の10月16日から)、すでに肌寒い季節を選び、塩沢宿から秋山に朝早くに向かった。三国街道を歩き、関宿の関山神社前にある火伏地蔵に旅の安全を祈願し、道を右に曲り、清津川沿いの小道を歩き関興庵境内の南西を歩き、十二峠に至る。十二峠で一息入れ、眼下に広がる魚野川の谷と遠望する巻機山(まきはたやま)連山の美しさに、疲れはふっとんだと思う。一息付いた牧之は坂道を下り、倉下のお堂でお参りをしたのであろう。実は、この倉下のお堂に掛けてある献額に秋月庵の名で、俳句を奉納している。倉下に流れる谷川を渡り、急坂を上れば、緩やかな平坦な道が伸び、少し歩くとキョットギと呼んだ峠にさしかかる。そして眼下に角熊のムラが見え、勢い下るとそこに十二社がある。古来から伝わる「ねじり杉」(十日町市指定文化財)に触れ、牧之は一息を付いてから小出に至るとする説と、キョットギ峠の手前から下り、小出に至ったとする説がある。実態は不明である。しかし、小出に流れる深い清津川に2本の杉丸太を縛った萬年橋を渡ったことを牧之は綴っている。萬年橋を渡った左側には薬師堂があり、数多くの石造物が当時も並んでいたのであろう。ここで小道を右に折れ、西方に至り、清田山を経由して釜川流域右岸に出て、やや登り、七ツ釜手前で川を渡り、急な坂道を昇りあがったところに山神としてのブナの大木(この山神の大木の一部を保存して、信仰展示ブースに展示してある)があった。その傍らに双体道祖神が安置されていた。
 広大な原っぱに出たと牧之が書いている。この原で知人が狐に化かされたことを綴るも、遠方に米山と弥彦が見え、微かに佐渡も見えたと書き残している。この桶屋の団造が荷物を背負って歩いている原っぱは、今でいう堂平-源内山の谷上段丘面であったであろう。
 この段丘端に行くと中津川左岸になり、眼前に見える大きな高屋根の茅葺民家を観た牧之は、里にある大きな庄屋クラスの屋敷だと驚いたのが、中山という秋成村の一部であった。そこから坂を上り下りして目的地であった見玉の金玉山正法院(別名:見玉不動尊)に着いたのであった。
 牧之が訪れた際に見玉不動尊近傍には、多くの庵寺や塔頭が並び、現在とは異なる風景を牧之が見ていたことになる。驚くは、桶屋の団造の水先案内を受けた牧之は、朝早く塩沢宿を出発し、3つの分水嶺を上り下りして、夕方に見玉に着いた健脚である。
 牧之は、旅の工程を一枚の絵図で示している。それは中津川渓谷であり、下流の中山・野馳・見玉から始まり、清水川原から秋山の地であることを述べ、大赤沢、甘酒、小赤沢を描く。絵図凡例には、越後秋山と信州秋山が識別されている。現在の県境は硫黄川が境界であり、絵図と照らし合せると、硫黄川の左岸に位置している甘酒の越後秋山のしるしが付されている。現在、甘酒廃村跡地は長野県である。きっと、信州秋山である甘酒を間違って、越後秋山のしるしを付してしまったのであろう。
 2泊目は小赤沢の福原家で黒駒太子像を観て、よもやま話に花を咲かせた。2日目は、上ノ原、和山への深山幽谷の地を歩き、中津川を渡り、湯治場に至る。ここでは1泊の予定であったが、秋田の猟師と出会い、その生活の様子を取材したい思いで予定を変更して、2泊してしまうほど興味深く面白い猟師の話が聞けたようである。4日目は中津川左岸を歩き、屋敷に至り、その後、浅間山の噴火の影響を受けて飢饉になり廃村した大秋山と矢櫃を抜け、前倉で5泊目の夜を過ごした。ここでは美濃茶を頂き、短冊を5、6枚書いて御礼として渡した記録がある(写真:お茶の木)。5泊の秋山の旅を終え、6日目は帰路であるが、疲れもあり小出の市右衛門宅に6泊目の夜を過ごした。次の朝、十二峠を越えて、魚野川のほとりで一息入れた牧之は、三国街道を下りて塩沢宿に辿り着いた。
関山神社前の火伏地蔵
山神の双体道祖神
鈴木牧之が奉納した俳句
お茶の木
越後秋山地内の自然林の中にお茶の木が確認されている。
詳細は不明だが、日本最高地にあるお茶の木である可能性がある。